清水寺ライトアップ


嵐山の桜|祇園白河円山|ねねの道から高台寺清水の舞台

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曲:ドビッシー「月の光」


<花は盛りに 月は隈なきを>

花札を思い出します

この日の京都東山の桜は8分咲き。月もしかり、今宵は十四夜。いつの間にか陽は西に落ち、東の青い空に黄色い十四夜の月があがった。

清少納言・枕草子のもっとも有名なフレーズが思い出された。

花は盛りに 月は隈なきを 見るものかは・・・

十四夜の月を宵待月あるいは小望月ともいうようである。煌々と輝いてはいるが、少しだけ何かかが欠けている。欠けているところが立体感を引き出す要素かもしれない。

完全なものにはそれ以上を望めないが、どこかが欠けているものは、そこに期待とか伸びしろを見つけ出すことができほっとする。それがいい。

いっぽう、矛盾しているかもしれないが、壊れてしまうものは悲しくて、もっといい。滅びの美学がそこにある。滅ぶ、なくなってしまうのは生きとし生けるものの宿命だから、あまんじてそれを受ける。無常を感じながら破壊の悲しさを享受する。それがいい。そしてもうひとつ名句を・・・。

菜の花や 月は東に 日は西に  

蕪村である。
 季節は春、春分を過ぎたばかりの「菜の花盛り」の十四夜。蕪村の句は田舎の、どこを眺めても菜の花畑が大きく広がっているような光景を想像できるが、ここは京都東山・清水の舞台の十四夜・・・。


<清水の坂>

店の名前を失念?

和のたたずまい・・・珈琲店

そぞろ歩きの一念坂を抜けて、役者絵のかかる二年坂へ。
 二年坂には、「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という恐ろしい言い伝えがある。いずれにせよ、年をとったら階段はしんどい。気をつけて歩くにこしたことはない。

高台寺から清水に上る石畳の道は、夕闇の人ごみに紛れ、春宵一刻値千金の雰囲気がある。

清水焼の店

そして三年坂へ。
 三年坂は産寧坂ともいう。産は「うむ」、寧は「やすき」という意だから、この坂を通って清水寺へ参詣すると安産する、という信仰による命名だろう。

それにしても、古くて由緒のある坂だけに、NHKの「そのとき歴史は動いた」ではないが、時代を揺るがすようなドラマがこのあたりで展開されたに違いないと思う。現代人の目で辺りを眺めてみても何も見えないが・・・。(後ほど一つ挿入の予定)

しかしこの散歩道の雰囲気はいい。

よいのは当然、高台寺道の周辺から産寧坂までの道は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。ちなみに白川村合掌集落や会津西街道・大内宿、信州の妻籠宿・奈良井宿・海野宿、角館の武家屋敷、倉敷の白壁の町並みなど、それにこの近くでは祇園新橋も保存地区になっている。

みやげもの屋も大忙し

産寧坂「青龍苑」:
敷地内には大正初期に建てられた料亭・阪口の建物や日本庭園がある
京町家、数寄屋、登り合掌造りなどの和風建築を新築、庭園は自由に散策できる
そば店の有喜尾、八ツ橋の井筒八ツ橋本舗、脂取り紙のよーじや、香の松栄堂、
京つけもの西利、喫茶店のイノダコーヒ、工芸店くろちくの七店舗がはいる

参道の混雑

春華の乱れる宵
花見客は引きもきらず参道を清水の舞台へと向かった




今宵の夕食は「順正」のゆどうふで
豆腐田楽は甘味噌で、テンブラは塩で


<さてこのお方はどなた?>

 「この夜も参籠する老若男女貴賎都雛(きせんとひ)が肩を並べ、膝を重ねんばかりにひしめいている。それら群集する人々の中に、二人の男の子を左右に寝かせ、幼児を懐に抱いた一人の女がいて、一心に祈念している。その顔は化粧をした様子もなく、やつれており、思いつめた厳しい表情だが、三人の子の母とは思われないほどにととのって美しい。彼女は心の中で次のような祈りの言葉を繰り返している。

 『大慈大悲の観世音菩薩の本誓は定業(じょうごう)の者までもお助けくださる“枯れたる草木もたちまちに花咲き実なる”と説かれております。どうぞ、敵に狙われておりますこの三人の子供たちの命をお助けくださいますよう』

 時は永暦元年(1160)2月10日の明けがた、この女は故左馬頭源義朝の愛妾、23歳の常盤である。・・・

 もうお分かりのように懐に抱かれた幼児は牛若丸、後の九郎判官義経であるが、このときの母子はいかにも辛く厳しい。生命の保障のない逃避行・・・

 このあと清水の師僧の「しばらく隠れておられよ」と勧めるのを、迷惑をかけるからと断って寺を離れる。

 頃は如月十日の曙なれば、余寒なお尽きせず、音羽川の流れも氷りつつ、嶺の嵐もいと烈し。道のつららも解けぬが上にまたかき曇り雪降れば、行くべき方も見えざりけり。・・・」と九条家本・平治物語は語る。


<音羽山清水寺>

さて驚いた。ぶったまげた。

清水坂を上る途中から上空が騒がしい。
 狭い坂道を登っているときは目線が下を向いていたので気づかなかったが、家並みが切れて、その明るさが目に入った。

まばゆいばかりのライトアップは三重塔を照らし上げ、上空にはレーザー光線がただよい、雲の切れ目からまた十四夜のお月さんが顔を出した。



仁王門の向こうに三重塔は凛と立つ
風雲急を告げる空と好対照

日常生活との違和感がたまらなくいいが、いっぽう音羽山の桜が全山ライトアップというのは凄まじい。たくさんいらっしゃる神様は夜もおちおち眠れないのではと、心配すらしてしまう。



出世大黒天様も塗りがはげてやっと人間っぽくなってきました
このほうが親しみがわいてきます
苦労していますね!

そしてやっと清水の舞台にたどり着いた。
 夜ゆえに、光の競演ゆえに、群集の多さゆえに、舞台からの眺めは常とは違う。「絶景かな、絶景かな!」は南禅寺の石川五右衛門だが、ここでは信長の「夢か現か幻か!」的心境になる。

最後は「桜の園に吾消え行かん!」で締めくくりたいと思う。


 

<清水寺の由来>

音羽山(昔は乙輪山)清水寺は京都遷都の少し前、宝亀9年(778)、坂上田村麻呂の助力を得て、奈良・子島寺の延鎮上人(?〜821)によって開創された。

延鎮上人は「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢を享け、音羽山麓の滝のほとりにたどり着き、千手観音像を彫作して行叡居士(延鎮の師)の旧庵に祀ったのが、興り。

その翌々年、坂上田村麻呂は、妻の安産のために鹿を求めて上山するが、延鎮上人に会い、殺生の非を諭される。かれは妻に上人の説かれた「清滝の霊験、観世音菩薩の功徳」を語り、仏殿を寄進する。そのとき十一面千手観音を安置したのが789年で、こちらを開基とする説もある。

その秘仏の本尊・十一面観音立像は33年に一度のご開帳とか。
 安産信仰の子安観音を祀った子安塔(重文:江戸期)は、本堂の南谷(錦雲渓)を隔てた丘上に、高さ15mで三重に建つ。

 世界遺産にも登録されている。

<完>


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